【幸せ030】 幸福の科学の『与える愛』の問題点 2

この記事はブログの2番目に固定している、
   【固定/随筆】 大川隆法に関係なく、私たちは幸せになりましょう! の続きです。
信者さんのメンタルケアが目的ですので、あえて標準語で書いています。
「 ◎大川隆法に関係なく、私たちは幸せになりましょう!」というカテゴリで統一しています。



実力もないのに『与える愛』などとほざく愚

与える力がない人間が与えようとするからおかしくなる!
あなたは毎月あと3万円あると生活が楽だとして、
ホームレスの人から毎月3万円もらって素直に喜べますか?
「『与える愛』をいただいた。『信仰の奇跡』だ!」と素直に喜べますか?




 『与える愛』

 私はこの考えは全面的に支持します。それでもただの一般人である私、大金持ちでも、有力者でも、学者でもない私に、どれだけの与えられるものがあるでしょうか? 私にできる事は人に会ったらにっこり挨拶をする。相手の話を「うんうん!」と尊重して聞く。相談されたら、「うーん、自分の個人的意見だけど、私はこう思うよ」と言うくらいです。知りもしない事、出来もしない事を偉そうに「与える」事はできません。

 日常生活の中では相談もされないのに教える、請われもしないのに与えるのは失礼です。貧乏でまともな食事もできてない人に炊き出しをするのは『与える愛』だと思います。ですが、普通の家庭の食卓を訪れて、「お宅は野菜が足りませんね、油を使いすぎですね」などと言ったら失礼千万な話です。『与える愛』などではなく『押し売りの愛』になります。

 ですが教団から『与える愛』などと教えられると、「何か与えなくては・・・」と思ってしまうのが普通の信者です。でも私たち一信者にどれだけ与えられるものがあるでしょう? そりゃあ1万円、2万円くらいならあげる事ができます。しかし信者仲間から、「実は借金が1000万円あって、今月中に返さないと店は潰れるんだ」みたいな悩みに私たち信者が対応できるでしょうか?

 『与える愛』だからと言って、とりあえず緊急避難的にあなたが1000万円用立てできるでしょうか? あるいは、「そうですか、それでは教団が1000万円用立てしてあげましょう」と言うでしょうか? さらに、「教団から経営専門家を派遣して、そのお店を繁盛店に再興いたしましょう」みたいな申し出があるでしょうか? 本気で『与える愛』を訴えるのであれば、ここまでやって当然だと思うのです。『経営の法』とか偉そうに説いているのであれば、信者に対してこれぐらいやって当然です。成功すれば教団の宣伝になりますし・・・。



 でも結局やらないんですよね。はっきりゆうと、やれないんです! 実現党を見てればわかるんですが、結局票数が減るばかり、支持者が減るばかり、売上が減るばかり・・・。自分の会社すら満足に経営できない人間が、他人に『与える愛』などできないんです!

 反論があるんやったら、幸福実現党から、共産党・民主党・維新の会・社民党に選挙アドバイザーを送ったら良いんです。実現党がホンマに注目されているのなら、三顧の礼を持って迎え入れられるでしょう。しかし現実は、「タダでもいらんわ! そんなん!」言われるのがオチでしょう。



 かつて元教祖夫人・大川きょう子さんはこんな風に言いました。
   「大川隆法総裁先生の本を献本する事が『与える愛』です!」
ホンデもこれ、かなりテメー勝手な言い草だと思います。

本を読んで共感した部分もありますけど、疑問に思った部分もあるんです。その疑問をぶつけると、「伝道してみればわかります」、「今度のご法話中継を聞くとわかります」に逃げるんです。全然『与える愛』ではないんです。

 結局支部長も幹部も勉強してませんし、誠意もないんです。与える実力がない人間が『与える愛』などと軽々しく言うと、最終的には「だまし」や「言い逃れ」をするハメになるんでしょうね?




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愛に「与える」ってなんだろう

与える愛って偉そうですよね。
愛とは本来思いやりという意味ですが「与える」って上から目線です。

皆さんよく「与える愛」は正しいとおっしゃるんですが、私は違うと思います。
愛って自発的な相手への思いやり。
それが見返りを求めないものであるのも、お互い平等であるのも大前提です。
それを上から下のものに対する「与える」という表現を使うのはおかしいと思います。

この「与える愛」という言葉は意味が相反する物が一緒になっている洗脳語なんですよ。
ダブルバインドです。
愛は与えられるものではないですし、与えるものでもないのです。
幸福の科学で「与える愛」をうまく使ってお金集めを出来るのは、幸福の科学で作った洗脳語だからです。
なにやらいいことは言っているのに結果がおかしいと感じているこの「与える愛」と言う言葉のからくりです。

態度と言葉

よく心理学で言われることです。
態度と言葉をどちらを人は信用するのか?

たとえば
Aさんに「あなたが嫌い」とはにかんで笑顔で言われる
Bさんに「あなたが好き」と冷たい態度で言われる

これらからどのように感じるか、

Aさんの本心は好き
Bさんの本心は嫌い

ではないでしょうか。
人は言葉よりその人のとった態度を信用する傾向があります。
人は態度で示されたことがその人なのです。
言葉は嘘がつけますが、行動や態度は嘘がつけません。

これを幸福の科学で言う「与える愛」に置き換えてみると
言葉「与える愛」
態度 無理な献本・伝道・植福・言い訳等々

脱会者にはもうお分かりだと思いますが、教団は愛を説きながら搾取している団体です。
教団の本音は教団の権威とお金です。

言葉と態度が正反対だとどのように受けとったらいいか分からなくなるときがあります。
ダブルバインドです。
洗脳の足がかりにされてしまいます。
自分が何をもって判断しているのかをよく知る必要があります。

Re: 態度と言葉

カチカチさん、どうもです。

>この「与える愛」という言葉は意味が相反する物が一緒になっている洗脳語なんですよ。
>ダブルバインドです。

なるほど、言われてみたらそうですね。
「黒い白馬」みたいなもので、「与える愛」という言葉自体が矛盾するものを含んでいますね?

まあ私は「奪う愛」対「与える愛」という単純な図式で捉えていましたので、
「愛も時として奪う行為になりがちな所があるから常に気をつけなければならない。
その反対の『与える愛』であるように注意しよう」というくらいで使っていました。

でも確かに「与える愛」は人を勘違いさせえて混乱させる要素がありますねえ。
何かほかにいい言い回しがないものでしょうか?


「言葉」と「態度」
これもよくわかります。
私が良く使う、「言っている事」と「やっている事」と同じですね(笑)。

結局伝道に行って、「幸福の科学に入ると幸せになるよー」と言っても、
当の本人がどう見ても幸せそうに見えないから信用されないんですよね。

幸福の科学でいう愛の定義はどのようなものか

2ちゃんねるの使者さん

長文すみません。参考になればいいですが。

幸福の科学で言う愛の定義は幸福の科学独特のもので、そのまま使うには難しいと思っています。
会の外の人にはまるっきりわからないし、会内でも実はよくわからないはずです。
大川はこの概念が単語としては著しても、納得のいく定義はしないし、具体的にどういったことかを言ってないからです。
また教団は具体的な愛の行動をしていないからです。
(幸福の科学はいつもわかりにくい定義で具体性に欠けます)

幸福の科学で作り、使っている言葉は幸福の科学における概念ですから、幸福の科学の言葉で幸福の科学の説明をするのは難しいです。
言葉はそれを表すのに別のもので説明しないとわからないからです。
(例えば、顰蹙を買うという言葉を説明するのに、ひんしゅくをかう、とだけいってもわかりません。誰にでも共通する理解できる別の言葉でわかりやすく具体的に説明します。「顰蹙を買うとは、良識に反する言動をして人から嫌われ、さげすまれる。用法『世間の―・う』」のように)

キリスト教や仏教、神道、また新興宗教の宗教用語をパクり、それらしく教義を作っているので、余計に難解になっているところがあると思います。
(それが詐欺の手法と非常によく似ている部分です)

幸福の科学における愛について詳しく考えるには、本来の愛の定義をつまびらかにし、幸福の科学における愛の定義との比較が必要でしょう。
愛とはギリシア哲学、キリスト教の概念で仏教における慈悲、儒教における仁とは違う概念です。
本来の意味や思想、宗教の歴史をよく知らず、幸福の科学の教えを鵜呑みにするのは非常に危ないです。

「与える愛」は言葉としてはおかしいです。
また「奪う愛」も言葉としてはおかしいです。
愛の本来の意味を考えればこの言葉のおかしさがわかります。
最初大川は愛を説明するために「与える愛」「奪う愛」と表現したのかもしれませんが、言葉が一人歩きをし、教団がそれを利用しているように私は思います。

ウキペディアでは不十分ですが、それでもたくさん愛について載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
宗教的な愛がキリスト教からのものだとするなら、このような聖書の内容が大事だと思います。

参考wiki
新約聖書においては「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にイエス・キリストを通して愛が示されている。
「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない。
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。

西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。

比較は以下の内容にも必要でしょうね。
仏陀と大川隆法
イエスキリストと大川隆法
反省の本来の意味
オカルトと大川隆法の霊能力
幸福の科学の手法とネズミ講の手法
などなど。

>でも確かに「与える愛」は人を勘違いさせえて混乱させる要素がありますねえ。
何かほかにいい言い回しがないものでしょうか?

幸福の科学でいう「与える愛」を使う時や本来の「愛」なる意味を使う時などにちゃんと説明して使うとか、でしょうか。
愛にもたくさんの側面がありますからあいまいにして論理を展開するのは誤解を生むかもしれませんね。
私は今幸福の科学の書籍は持ってないのですが、太陽の法などにある書籍から教義の定義の文言をきちんと抜粋して前置きする必要がありますかね。
(面倒くさいですが)

与える愛は実際あまり突っ込まれていない部分なんですが、ここの間違いをわかりやすくする必要があるのかなあと使者さんの記事を見てると感じます。
新約聖書の福音書やパウロの手紙などをそのまま見ても幸福の科学の愛の定義とは違うと感じると思います。

新約聖書
マタイによる福音書 5章
5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

コリント人への第一の手紙 13章
13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 13:11わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 13:12わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 13:13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

ありがとうございます

使者さん カチカチさん 詳しい解説を大変ありがとうございました。

私も以前から「与える愛」という言葉に違和感を持っていましたが
おかげさまで よくわかりました。
また、こういう問題意識を持って聖書を読むと なるほど 聖書の方も今までになく深くしみてまいります。

与えるという自覚

K会のいうように無私なる愛を前提として、しかるべき厚意を智慧を持って与える(実際は実践ができていない)という言葉の定義は、そうそう間違ってはいないでしょう。
与える愛という教えは、そう言葉で定義するか否かは良いのですが、問題は、「与える」、「与えている」という自覚が問題だと思います。
ここに愛の欠落が始まっていきます。

与えるという思いを捨て、愛するという想いに変えなければいけないと思います。
ここを勘違いすれば、上目線(=次元の高い愛という勘違い)になったり、押し売りになったり見返りを期待するようになってくると思います。与えている、与えなければと。
与えるとは、自分が決定ずけるものではないのです。

例えば、太陽をみて、人間に光を与えているという想いは、人間は一切感じません。
ここに与えられているという感謝が自然に生まれます。

愛するを低次元に位置づけている愛の発展段階によって、愛するから与えるに変貌します。
与える愛の教えが、洗脳の教えと捉えられてもこれは仕方がないでしょう。
・・・与える愛が高次元愛で最たるは伝道ですね。たいへんでした。
何故なら、悟りの法にも誤りがあるからです。
与えるという自覚、意識がある以上、愛することを忘れるのです。

ただ、両極端ですが、奪う愛という言葉は、問題があります。
この教えによって、苦しんでいても個の自己責任による修行課題を重視して、突き放し裁く要因にもなってきます。要は助け合うという愛の精神が欠落してきます。
自己責任、カルマ刈り取り、奪う愛、次元構造等によって愛の欠落した団体になっていきます。

私の経験ですが、如何に奪う愛といわれようが本当に助けて欲しい日々はありました。
奪っている、自己責任、カルマです・・・。
寂しかったですね。

Re: 幸福の科学でいう愛の定義はどのようなものか

カチカチさんは博識ですねえ。
なんかもう一本記事を書けそうに来ました。
聖書は高校生の時、日曜学校に通っただけなんんで、あんまり詳しくないんです。

言葉の定義をきちんとする事は本当に大切だと思います。
ところが宗教のくせにそれを全然やってないのが幸福の科学なんですよ。

愛の定義もあいまいですが、たとえば仏の定義はなんでしょう?
神と仏はどう違うのでしょう?
エル・カンターレ以外の9次元霊は仏なのでしょうか?神なのでしょうか?
『映画・仏陀再誕』で「天に二日(にじつ)なく、地には一人の仏陀」と言っています。
とするとエル・カンターレ以外の9次元霊は仏ではないことになります。
それでは他の9次元霊達はどこかの惑星の長になった時、仏と呼ばれるのでしょうか?
とすると10次元以上の霊は全員仏なのでしょうか?
「根本仏」という言葉を大川が使っている以上、根本ではない仏は複数いる訳ですし・・・。

仏という幸福の科学の最重要概念ひとつとっても、大川による定義がまったくされていません。
1億年に一度、せっかくエル・カンターレの本体が生まれたのですから、
こんな大切な事を仏陀自ら説かないのは『仏陀失格』ですね。

よくよく大川隆法氏の説く法を観察すると、耳障りのよいそれらしい言葉を本にしていますが、
一番大切な言葉の定義をしないで逃げています。
「信者との対話・質疑応答」で信者が核心的な質問をしてお、いつもはぐらかして答えます。
ですので信者たちも教義をつっこまれるといつも「自分はこうでないかと思う」と推測で物を言います。

最近の教団はよく「エル・カンターレ文明建設のために・・・」と言います。
でも「エル・カンターレ文明ってなんなの?」と質問すると、信者はみんな「うーん」と唸るんです。
「うーん、たぶん信仰に基づいた文明だよ」くらいしか答えられないんですね。
幸福の科学は「成功をありありとイメージしましょう!」と教えているのに・・・。

それよりも立宗27年にもなるのに、『信者必携・幸福の科学用語事典』すらないんです。

Re: ありがとうございます

さざなみさん、いつもありがとうございます。
カチカチさんの視点、素晴らしいですね。
『与える愛』という言葉に感じていた違和感、すっきりしました。

幸福の科学って、綺麗な言葉や高尚な言葉が多いんで、
ムードでその気になっちゃいますけど、
しょせんムードで中身がないですね。

Re: 与えるという自覚

XYZさん
深いですね~!

>問題は、「与える」、「与えている」という自覚が問題だと思います。

そうですね。
知らず知らずの内に、「与えなければいけない」という心の平安とは違う心になり、
「与えている」という自己満足に陥りますね。
後で考えると、相手は必ずしも喜んでいなかったのに・・・。


>私の経験ですが、如何に奪う愛といわれようが本当に助けて欲しい日々はありました。
>奪っている、自己責任、カルマです・・・。
>寂しかったですね。

この感情、すごく共感します。
「与える愛」はわかっていても、自分が与えて欲しい時もあります。
そんな時、「奪う愛」とか「自己責任」とかいう教えがあるから、一人で悩むしかありませんでした。
支部長に相談しても「人生の問題集」とか、「そういう境遇を自分で選んで来た」としか言われませんから・・・。


なんかもう一本記事を書かんといけなくなったかなあ? ひいはあ!

横レスですが

 非信者の幸福商店です。横レスで失礼します。

 ところで、コーフクへの「与える愛(殖福、お金)は、皆さん
年間いくらくらい「与えている」んですか。気になります。

 しかし、お布施が口座振替っていうのも、おかしな話です
ね。これじゃあ、強制的な「与える愛」じゃないですか。

定義付けの重要さ

>2ちゃんねるの使者さん

またまた長文ですみません。誤解されたら困るかなと思い、くどくど書いてます。ごめんなさい。

幸福の科学は既成の仏教用語やキリスト教の用語、または幸福の科学以外の新興宗教の用語を使って、自分たちの思想の説明をしていますが、これは不十分だと感じています。
思想でも宗教でも哲学でもなんでもそうですが、新しいものがあればそれに名前や用語が作られ、定義されるものだからです。

例えば、Aという犬種とBという犬種を掛け合わせたらCという犬種が認められた。
CはAの要素をもちあわせながらAではないし、Bの要素をもちあわせながらBではない。
そのためCという名前が付けられます。
継承しながらも別のものであれば名前と定義付けされます。
オリジナルなら言わずもがなです。

幸福の科学が「愛」を用いて説明するのであるならば、ギリシア哲学やキリスト教で言われるところの「愛」だと誤解されても仕方ありませんし、それで批判されても仕方がないと思います。
また、大川が打ち出した幸福の科学オリジナルの考えであるならば、「愛」を使用せず仏教で言うところの「慈悲」や儒教で言われるところの「仁」のように自分たちで名称と定義付けをするべきです。
(キリスト教と仏教と儒教は時代も地域も違うので思想がよく似てるからといって一緒くたにするのはおかしいのです。
違うものは違うものだからです。すべて歴史的背景と地域性があるのですから。思想にも歴史があります。
大川はこういったことが分からず知識のみで教団の世界観を構成しているので無理があります)

幸福の科学はパクリ宗教で自分たちのオリジナルの考えなどなく、既存の概念に依存し、意味合いを曖昧にして言い訳の抜け道を作り、利用しているのです。

2ちゃんねるの使者さんのいうとおり、仏や神、信仰なども同じで、幸福の科学にはちゃんとした定義付けなどありません。

>よくよく大川隆法氏の説く法を観察すると、耳障りのよいそれらしい言葉を本にしていますが、
一番大切な言葉の定義をしないで逃げています。
「信者との対話・質疑応答」で信者が核心的な質問をしてお、いつもはぐらかして答えます。
ですので信者たちも教義をつっこまれるといつも「自分はこうでないかと思う」と推測で物を言います

意味の共通確認と判断がなくては議論も出来ませんし、同じ目標で行動することも出来ませんよね。
あいまいなままの法はグレーゾーンばかり大きくて、いくらでも言い訳ができてしまいます。
また会内では意思統一がなされないので、もめ事やいさかいが多くなります。
信者の教団行動は上から強制されたものになります。
信者の問題はこの「わからなくてもいいや。ぼんやりでもいいや。なんだかすごいから」という曖昧な判断でしょうね。
よくこれで教団の体をなしているものだと愕然としますが。

余談ですが、愛について。
私はキリスト教が絶対よいとは思っていませんが、キリスト教が世界宗教になった背景はイエスの説く愛の思想だと思っています。
(聖書は昔読んだので、間違っていたらすみません)
旧約聖書では神からもらった戒めを守ることによって神の繁栄を約束されるユダヤの民の歴史で愛の思想は出てきません。
新約聖書のイエスの福音書で愛の思想が出てきたと思います。
福音書とパウロの手紙は愛について説く部分があります。
キリスト教ではユダヤ教で言われる救世主をイエスとして旧約聖書と新約聖書を教典としているわけです。
イエスの説く思想が弟子によってもたらされ、その時代の人に賛同され、ユダヤ人を支配していたローマ人をも感化し、広まっていった歴史的理由の背景にこのイエスの説く愛の思想があったと思います。

パウロによる言葉。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

愛は信仰より大いなるものだと言っています。
これは神に気に入られたいために人を愛するのではないことをいっています。
良いものに触れるだけで、幸福の科学の「与える愛」「奪う愛」は非常にちんまい考えだと言うことが分かります。


>XYZさん
>私の経験ですが、如何に奪う愛といわれようが本当に助けて欲しい日々はありました。
奪っている、自己責任、カルマです・・・。

教団に入会する人はそういった面がある人が多かったと思います。
愛が欲しいからこそ、愛の思想に惹かれるものですから。
それを「奪う愛」で一刀両断されても救われません。カウンセリングでもこんなのないですよ。

これは私の考えですが。
人間も動物です。猿の一種です。群れて社会を構成しています。共存しています。
個体では生きていけないので群れて社会を構成しているのですから、
本能で愛し合うことも理性で愛し合うことも調和と発展につながるわけです。
私は人間は愛し、愛される欲求があると思っています。手前勝手な欲ではなく、種としての本能で。
(これを職員に言ったら「与える愛」だ!「奪う愛」だ!と言っていました)
この社会で自称神の教え「与える愛」「奪う愛」くらいでは人は納得しないでしょう。生きていけませんから。
「与える愛」「奪う愛」の思想はいわゆる男女の愛、性愛レベルの話で、それを信仰に無理矢理持ち上げている感じがします。

愛の基本は親子の愛だと思うんですよね。
親が生まれた子を育てる無私の気持ち。
大川って親子の愛はあまり説いていないんじゃないですか?
親子関係がうまくいってない情報もありますし、大川の精神発達の歴史を垣間見る感じがします。

>さざなみさん

参考になりましたらよかったです。
余裕があるときでもよかったら、キリスト教の初心者向けの解説書で図説が多いものを読んでみてください。
2ちゃんねるの使者さんがお持ちのような図説の仏教解説をしている本で聖書やキリスト教のものがあります。
初心者向けの解説本でも全体が分かり、理解が深まりますよ。

さらに横レスですみません

幸福商店さんのご質問に関連して聞いてみたいことが。あ、自分も非信者です。

教団へのお布施も、信者さんたちは「与える愛」っていうんですか?自分の感覚だと、与える愛ってそれ自体上から目線臭がするんですよ。ですが、それを信者から教団に対して使ってるとしたら、信者的には上から目線と思ってないのかな、とか。

乗っかってすみませんがこちらもどなたかご教示いただければ。

布施は信仰心による功徳ではないでしょうか

幸福の科学は一番大事なのは愛よりも信仰。
だから教祖が常に上で信者は下の扱いです。
大川のキャラ設定は創造神であり、教祖であるのであの世でもこの世でも最強です。

布施は信者が天に宝を積む行為で、たくさん積めば天国にでの地位が高くなるものです。
与える愛ではないと思います。
下のものが上のものにお願いして布施してる感じではないでしょうか。

潜在する我欲

使者さん、カチカチさん、返信ありがとうございます。

「与える愛」の教えは、多数言われる通り、トータルでみて洗脳の教えになっています。
落とし穴が潜んでいます。

愛の発展段階説と次元構造の教え、波長同通の法則等と悟りの法、八正道の正信=正見の教え、反省の法、客観視の教え等を総合的に見れば、実践した先には大きな落とし穴が待っています。

菩薩を目指す目標と仏(偽仏ですが)という絶対者への信仰によって、天国は保証され、悟りの向上が得られます(と信じていく)。

そこに潜在する我欲が内在されてきます。
この我欲は気がつきにくいのです。

又、法が両極端になっています。与える、奪う、ハンドルを切り直す等、両極端です。

つまり、中道の教えが中道にならないのです。
与える愛、奪う、この両極端を捨てなければ、真実の心は隠されていくのです。
実は、与える愛、奪うの両極端を捨てたところに、我欲は消え、中道が現れてきます。

一見素晴らしく感じる与える愛の教えに我欲を感じるのは、当然のことだと思います。
但し、K会で布施をする方の中には、本当に純粋にされている方々も居られました。
そういう方は、与える愛、与える愛という言葉をほとんど言われません。

教えの誤りや実態を知るということが大切だと思います。

本ブログのように解りやすく的をついた内容は、見られておられれば、たいへん印象に残り、役にたつものだと思います。

Re: 横レスですが

幸福商店さん

どんきー王子さんが自身のお布施額を書いてくれていますね?
   底なしのお布施地獄:幸福教団にて
   http://ameblo.jp/two-bass/entry-11633003709.html

私の内訳はどんきーさんとは違うのですが、
同じくらいお布施したと思います。

「不思議」さんという方が、「たいしてお金はかからない」旨の意見を述べておられますが、
単なる平信者や財産のない信者にはそんなに強制しないので、
月々千円~3千円程度で済みます。

しかし、「こいつはイケそうだ」という信者にはまず役職を与え、
会議や勉強会、簡単な式典などに参加しないと肩身が狭い状況にするんですね。
責任とノルマを背負わせる訳です。
会議で何度も大川ビデオを見せられている内に、だんだん洗脳される訳です。

平信者と活動信者にはそういう差があります。
経済状態にも拠りますが、活動信者の場合、
平均ひとり月7万、年間84万くらいは今でも払っていると思いますよ。
最近ではお布施圧力が高まっていますからもっと高まっている気がします。

>しかし、お布施が口座振替っていうのも、おかしな話ですね。

これは元々「会費」だったのでおかしい訳ではないのです。
月々千円で月刊誌が届いていました。
言わば「月刊誌代」であって、信者と愛読者を含んでいました。
それがある時名簿上でもいいから信者数を増やしたい大川が、
「今後月刊誌はタダで配る。
その代わり、月刊誌を受け取っている人はすべて信者としてカウントせよ。
月々千円の自動引落としは『植福の会』と名称を変え、
当会の活動に賛同した人が自発的に行なっている寄付という形にせよ」となったのです。

元々自動引落としされていた信者にはその辺の説明はなかったんです。
ですので私もアンチになってからもしばらくの間、
自動引落としを解約しないままにしていました。

ちなみに自動引落としを解約するのは簡単です。
私は引き止められる事もなく、電話一本であっさり手続きが済みました。
   『植福の会』を簡単にやめる方法
   http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
幸福の科学も後ろめたさがあるのでしょう。


それから『植福の会』は一口千円で、何口の協賛でもOK。
毎月10口1万円以上になると『大黒天信者』と呼ばれ、
年4回、『ザ・大黒天』という小冊子が届きます。
どんきーさんは『大黒天信者』になっていた訳ですね。
内容は「XXさんが1千万円お布施しました。喜びの声をご紹介します」
「次は映画です。学園です。大学です。お布施した人にはこのような称号が与えられます」
と言った感じです。

Re: 定義付けの重要さ

ここをお読みのみなさん。
ちょっとご留意してください。
アテンション・プリーズ!

カチカチさんが指摘された「言葉の定義」!
どうでもいいように思われがちですが、
これってかなり重要なことなんです!

たとえば「鬼」という言葉は日本と中国では意味が違います。
日本人は「人間よりデカくて、筋骨隆々で獰猛な怪物」をイメージします。
しかし中国人は、「青白い顔をした病的な幽霊」をイメージします。

それから動物や植物を表わす漢字も、日本と中国では微妙にズレています。
ハリ治療をする際のツボの位置も、同じ点穴を表わす言葉でも日中韓で微妙にズレているそうです。

日本人が「友達」という場合、
   「価値観を同じくして、ともに苦労を分かち合うことのできる相手」
をイメージします。そして日本人は、
   「友達だからこそ、迷惑をかけたくない」
と考えます。

一方中国人が「友達」という場合、
   「自分に利益をもたらしてくれて、自分の成功を喜んでくれる相手」
をイメージするそうです。そして中国人は、
   「苦しい時こそ迷惑事を受入れてくれるのが友達だ」
と考えるそうです。

そんな訳で「言葉の定義」を明確にしないと相互理解が成り立たないんです・・・。

よくわかりました

 使者さん江

 どうもありがとうございます。

 よく分かりました。

 「植福の会」だから、会費なんですね。

 「○○友の会」会費と一緒ですね。

Re: さらに横レスですみません

通行人Aさん

ここんとこ疲れ気味で返事が遅れてすみません。

面白い事に、お布施の場合は「与える愛」という言葉は適応外です(笑)。
いつも紋切り型でこのような説明がなされます。

「このたび主エル・カンターレ、大川隆法総裁先生より、尊い植福(お布施)の機会を賜りました。
 XX(映画・学園・大学・生誕館建立など)植福は、仏陀である総裁先生が
 ご在世中にしか出来ない、1億年に一度しかできないたいへん貴重なチャンスです。
 エル・カンターレが大学を建てるときに家庭を壊してでも大いなる貢献をされますと、
 あの世に還ってから主エル・カンターレから大変な感謝の思いが届きます。
 それは一種の勲章であり、ほかの霊からも賞賛され、あの世でのあなたの評価があがるのです。
 このような尊い機会を与えてくださった主に感謝の思いを捧げ、
 私たちは『必ず●●口(一口10万円)のお布施をするんだ!』という思いを強くして参りましょう(大意)」

お布施の場合でも、「尊い機会を与えてくださった」のはあくまでもエル・カンターレなんです。
お布施の場合だけは例外的に、信者に「与える愛」の認定はされません(笑)。
私は大川隆法が誰かに心からの感謝をした事は一度も見た事がありません。

Re: 潜在する我欲

XYZさん

>K会で布施をする方の中には、本当に純粋にされている方々も居られました。
>そういう方は、与える愛、与える愛という言葉をほとんど言われません。

そういう純粋な方、確かにいらっしゃいます。
彼女達の献身的な働きは本当に頭が下がります。
私の4~5倍は活動していると思います。
でも残念ながらどんどん不幸に、そして貧乏になっているんですね。
純粋さは非常に評価いたします。
それでも純粋さ(信仰心やあの世)ばかりを追求するあまり、
この世(現実生活や生活)をあまりにも軽視しているように思います。

元々幸福の科学は「この世とあの世を貫く幸福」、
「「この世で100%、あの世で100%、合計200%の成功」を説いていました。
大川隆法はビジネス関連の下世話な分野での成功法を数々出版していました。
「経営入門」、「社長学入門」、「現代成功哲学」などです。
宗教家のくせにそこまでゆうならば、実際のビジネスで成功して見やがれ、ということです。
他党の分析はいいから幸福実現党の経営を上向き上昇して見やがれ、ということなんです。
自分が出来もせん事を偉そうにゆうのは、経営者ではなく経営評論家だと思います。
大川隆法は宗教家ではなく、宗教評論家なのだと思います。


「純粋さ」、および「この世とあの世を貫く幸福」について一言

最近私は「純粋さ」にそんなに価値があるのかと疑っています。
たとえば水の場合、純度100%の水に価値があるのでしょうか?
飲料水に含まれる不純物、要するにミネラルがない水の方が健康によいのでしょうか?
料理の美味しさを決める旨み成分はグルタミン酸。 これを純粋にしたものが「味の素」です。
では「味の素」だけを舐めていれば、幸福の科学信者は幸せで健康なのでしょうか?
そういうわけで私は「純粋さ」に対しては疑問を持っています。
「純粋なウンコ100%」になんの価値があるのでしょうか?
(しまった! また下品になってしまった!)

「車の両輪」ではありませんが、最近の私は「相反する2つの価値を上手に統合するのが大事」と思っています。
   「この世」と「あの世」
   「霊」と「肉体」
   「理想」と「現実」
   「言ってる事」と「やってる事」
の両方が合致する事が大事だと思うのです。
自分ができない事や知らない事は言わなければいいのに、
できないクセに大言壮語しているのが大川隆法だと思っています。

Re: よくわかりました

幸福商店さん

 >「植福の会」だから、会費なんですね。
 >「○○友の会」会費と一緒ですね。

昔はそうなんです。
今は「『幸福の科学大好きー!』という信者がが自発的に自動引落としに応じて下さっているんです」
「参同社が勝手にお布施の自動引落しをやっているんです」というスタンスで営業しています。

そういえば・・・

信者時代、ある婦人部の方が
「『与える愛』って言うけど、私達、愛を与えているつもりが、実は相手の方から与えられているのよね。」
と言っていて、大変感動したのを思いだしました。

与えるんじゃないんですよね。実は、与えられているんですよね・・・。
この婦人部の方、もうKKを退会していると良いな~。

使者さんへ

本部ブログは大盛況ですね(喜)。
常に見れるように中心に持っていかれたらどうでしょう。

純粋さ、なるほどですね。使者さんの言葉は解りやすいですね。

純粋さ故に、一心に信じて活動していますね。
しかし、やがては純真さも消えていくかもしれません。
誤った法を信じて、実践すれば純粋さは消えていくと思います。
本人は純粋に思っていますが、教祖の色眼鏡と同様な色眼鏡をかけて見ていますから、心情、行動が誤っていても気づきません。
これは、本人の心は純粋な気持ちですが、世界からみれば純粋では無いでしょう。

でも私は、K会の純粋な方にも真実に目覚めて頂きたく、批評は止めてこういった良いブログを見て欲しいと願っています。
与える愛の洗脳と落とし穴に早く気がついて欲しいですね。

本ブログのどなたかが言われていますが、「与える」よりも「与えられている」ことをもっと考えた方が、上なのです。
そこには、感謝が生まれるからです。

教祖の与えるが降魔経をみても根本仏の超上目線で作られていますね。
教祖が宇宙の根本仏と言い出した時点で、疑問が湧いた方もおられます。
純粋さは、これまでも信じてしまうのでしょう。
つまり、教祖の我欲までコピーされてしまうのです。
これは、正に洗脳としかいようがありませんね。

自分と自分以外の方々を「受容」する心が欠落していきます。
つまり、教祖に対して純粋であって、神の愛に対して純粋ではないのです。

自他の内なる神の心に対して、愛心を向ける純粋さに気がついて欲しいですね。

古い言葉ですが

一応これも佛教の言葉で。

「うぶ 相持ち」という言葉があります。随分と古い言葉で。

与えるほうも、もらうほうも、お互い様。
あるときは、与える側だけど、あるときはもらう側。

みろたんさん の書き込みを拝見して、百年目なんていう長落語の中に
一瞬出てくる、寺方の話を思い出しました。

どこぞの教祖の講話より、こっちのほうが面白いと思うんだけど。

米朝、百年目

http://www.youtube.com/watch?v=UCzLehnStUc&feature=related

長いから覚悟してみてくださいね~。言葉が出てくるのは、最後のほうです。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

こういう発想は、KKにはないようですね。

Re: そういえば・・・

みろたんさん

返事が送れてすみません。

なかなかじんわり来ますね。
5千円払って法話を聞くより
この一言の方がお金も時間もかからなくて
そのうえ深いですねえ・・・。

Re: 使者さんへ

XYZさん

そう言っていただけると嬉しいですね~。
励みになります。

色眼鏡、確かにその通りでしょう。
でも最近わかったんですが、
人間って他人の色眼鏡はすぐわかるのに、
自分の色眼鏡の存在はなかなか気づかないもんですねー。
私ももう3個くらい色眼鏡を外したつもりでしたが、
最近また見つけてしまいました。

   >「『与える愛』って言うけど、私達、愛を与えているつもりが、実は相手の方から与えられているのよね。」

この言葉、やっぱりいいですね。

Re: 古い言葉ですが

お侍さん

さすが防人僧、仏教関係の話、いろいろ知ってますね。

米朝のご紹介、ありがとうございます。
でも46分の動画ですかあ・・・。
最近、中国・韓国関係の動画やブログにまで手を広げているので、
いつ見れるかはわかりませんよ(笑)。
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プロフィール

エル・バカターレ(旧名:2ちゃんねるの使者)

Author:エル・バカターレ(旧名:2ちゃんねるの使者)
 
 幸福の科学の現役信者だす。すでに心は退会者で批判者(アンチ)だす。内部告発するために今でも信者でいてます。

 大川隆法は幻聴が聞こえるタイプの自己愛性人格障害者、幸福の科学は悪気はないけど結果的に詐欺行為をしてしまっとる団体やて気づきますた。ゆうたら『宗教もどき』、『宗教ごっこ』、『いんちき宗教』だす。ナンボ拝んでも救われまへんで!

 幸福の科学は大学もどきのHSUゆう私塾を開学しましたんやけど、教団規模のキャパを越えてますんでいずれ財政破綻する思おてます。社会問題なったら大変でっせ! 早めに退会するんが一番だす。信者はん、なんでも答えますんで疑問や質問は『質問コーナー』へどおぞ(メルアドは公開しとりまへん)!

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