神道こそが21世紀の宗教! (7)
つづきだす。
■ 神道のすげートコロ(1)
たとえばA県B村C集落に、地域の神社があったとします。ホンでもそれは神主が伝道活動して、お布施集めてでけたんやないんですわ! 集落の人たちがお伊勢はんとか八幡宮とか行って、神はんを勧請(お招き)して、自主的に建てた神社なんだす。伝道活動せんでも、地域住民が自主的に、勝手に建てた宗教施設でっせ! 村人が自主的に建てた神社だす! 地域の人たちは、別に「神社本庁」の登録信者やおまへん!
■ 神道のすげートコロ(2)
ギリシャ神話は「死んだ宗教」だす。現在ゼウスやアテナを信じる信者はいてまへん。スニオン岬に海神ポセイドン神殿がおまんが、現在その信者はいてまへん。ところが日本では現在でも宗像大社に於いて、「宗像三女神」として、多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)として信仰されとります。要おするに「今でも生きている宗教」だす。ざっとゆうて、2000年間続いとるんだす! こないな宗教、どこにありますやろ?
■ 神道が2000年以上続いて来た理由
それは「ニンゲンにとって無理のない教えやったから」だす。「神の理想のために命を捧げよ!」とか無茶苦茶な理想をゆわんかったからだす。極めて常識的な宗教やったからだす!
ニンゲンにとって実現不可能な「究極の理想」を説く宗教は、一見理想的に見えます。
ホンでもそれが「素晴らしい宗教か?」、よお観察しておくれやす。
普通のニンゲンが実現不可能な理想は、一見素晴らしく見えますのや。
ホンでも「でけもせん理想」は、しょせん長続きせんのだす。
神道こそが21世紀の宗教! (6)
つづきだす
■ 立派なコトをゆえば偉いんか! 共産主義のケース
1950~1990年頃、世界は「冷戦状態」にあったんですわ。共産主義国「ソ連」vs資本主義国『アメリカ」の闘いだす!わては当時若かったんで、共産主義にカブれとったんだす。なんでかゆうたら共産主義は教義がビシッとしとってわかりやすかったんですわ。一方の資本主義はたいした理論ものおて、割とふにゃふにゃしとったんだす。せやから世間知らずの若造のわては、ついつい共産主義に惹かれてしもおたんだす。
ホンでもおっさんになった今、わては共産主義の誤りを指摘でけるんだす。「共産主義思想でくくれるホド、ニンゲンは単純な存在やナイ」ゆうコトだす! ニンゲンて、マルクスのゆう定義でくくれるホド、単純な存在やナイんですわ!
ニンゲンの上っ面しか見よおとせん共産主義者は、所詮上っ面しか見えんのですわ。せやから「人間はこないなモン」ゆう、浅っぺらな理論を作ってホルホルするんだす。一方の資本主義は、「ニンゲンゆうのはよおワカラン」ゆう謙虚な態度がおますさかい、あれこれ偉そおに「これが理想や!」とかゆわんのだす。ちゅうか、ゆえんのだす。
若造やったわては、キッパリ物事をゆう共産主義に惹かれたんでんが、今考えたらそれはやっぱ「若気の至り」。若いウチはどないしてもキッパリゆうヒトに惹かれるんだす。ホンでも現実を冷静に観察すると、キッパリゆえるホド、ニンゲンて単純やないんですわ! おっさんになった今、共産党みたいに現実無視してハッキリゆう連中より、現実見るとよおワカランからムニャムニャゆうとる自民党の方がまだマトモやて思うんだす。
■ 立派なコトをゆえば偉いんか! 大川隆法のケース
大川隆法は初選挙のトキ、最低でも清和会くらいの新党が出来るとゆうてました。「9億円はゴミ」ともゆうて大笑いしてました。幸福実現党は「責任政党」ともゆうてました。ところが最下位で敗北すると、記者会見にも出て来んのだす。ネットでは「ゆうだけ番長」呼ばれとります。ニンゲン、「立派なコト」をゆえば、それでええんでっしゃろか?
■ 神道は、立派なコトをゆわん宗教
『古事記』や『日本書紀』読んだらわかりますやろケド、神道は日本の始まりしかゆうてまへん。宇宙がどないしてでけたんか、地球がどないしてでけたんか、日本人以外の人類がどないしてでけたんかは全然触れとらんのだす。ツマリ、ワカラン・知らんゆうコトだす。ハッキリゆうて「知らんモンは知らん!」ゆう態度。あるいは「日本以外、知ったコトか!」ゆう態度! 自ら「最高の神やない」テ表明しとります。
ホンでもそれのドコが悪いんでっしゃろ? 神道の神はんらは、ゆうたら日本国首相。全世界に責任は負おとらんのだす。シナやらコリアから「我々の生活にも責任を持て!」とかゆわれる筋合いはないんだす。そんなん「コリアが輩出した世界大統領(笑)・パン・ギムンにでもゆえ」ゆうコトですわ(笑)! わてら日本人と日本の神々は「分を心得とる」んだす! 勝手に世界を日本色に染めよおなんて考えとらんのだす。
神道こそが21世紀の宗教! (5)
つづきだす。
この記事、大幅改定しました。
すんまへん!
■ 神道の理想レベルは確かに低い。でも、それのドコが悪い?
ハッキリゆうて、神道は高尚なコトはゆうてまへん。ゆうとるコトは、「清く明るく素直な心を持ちなさい。神や先祖や両親に感謝しなさい。周りと仲良くして、周りを幸せにしなさい」。人間に要求しとるコトはこんだけ。
決して無理な要求やおまへんし、あくまで「努力義務」。しかも、これがでけんかったら地獄に堕ちるとかゆう発想はおまへん。欧米型宗教みたいに、「神を褒め称えよ!」とか「神の国を実現せよ!」みたいな高邁な理想はおまへん。掲げとる理想からゆうたら確かにレベルは低いですわ。
「掲げる理想」でゆうたら神道は、確かにレベルの低い宗教だす。ホンでもそれのどこが悪いんでっか? 「理想が高ければ立派」なんでっか? 「理想が高ければ、他人を不幸にしてええ」んでっか? 「ゆうコト(理想)さえ立派やったら、やるコト(現実)はメチャクチャでもええ」んでっか?
■ みなはんの理想はなんでっか?
みなはんの理想、みなはんが望むモノはなんでっか? 自分の人生を犠牲にしてでも、自分の親兄弟を犠牲にしてでも、妻や子供を犠牲にしてでも「神の国」、「神の理想」を実現するコトですやろか? すべてを投げ打ってでも、大川隆法グレート大総裁先生の理想を実現するコトがみなはんの望みなんでっしゃろか?
いえいえ、わてはそれは違ゃうテ思うんですわ。みなはんは愛する家族を守りたい、幸せにしたいゆうんが望みやテ思いまっせ。高級料理やのおても、毎日おいしいご飯が腹一杯食べれて、贅沢は望めんでも、息子・娘の将来に不安がない世の中に生きたいんと違ゃいまっしゃろか?
そないな暮らしがでけて初めて、「神さま、ありがとうございます」テゆえるんやないでっしゃろか? パレスチナ・イスラエルみたいに毎日砲撃があって、晩飯どころか命も危ない毎日の中で、「神さま、ありがとうございます。敵を皆殺しにしてでも神の国を実現します」ゆう祈りはどっか違ゃうテわては思うんだす・・・。こんなんがみなはんの理想やおまへんでっしゃろ?
■ わてら庶民が望むんは、「理想の実現」やのおて、「平和な暮らし」
今、シリアで、そして南スーダンで、悲惨な戦闘&虐殺が行われとります。政府側も反政府側も「理想の実現」を掲げて闘っとるんやテ思います。せやけどみなはんの望みは、家族を犠牲にしてまでの「理想を実現」やないテ思うんですわ。どっちが政権をとってもええから、「家族が犠牲にならん安心な生活」が望みなハズだす。
わてら庶民の望みは「どないなイデオロギーでもええから、安心して腹一杯食べられる」コトだす。大川隆法主義で腹一杯食べられるんやったらええケド、お布施地獄に堕ちるんやったらノー・サンキューなんですわ。腹一杯食べさしてくれるんやったら悪魔でも歓迎! 家族を飢えさして、「神の国実現」のために命の危険にさらす至高神やったらノー・サンキュー。こないな考えのドコが悪いんでっか?
■ 「理想主義」の問題点
神道は確かに大した理想は説いていまへん。どっちかゆうと「現実生活での理想」のレベルしかゆうてまへん。一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、それから幸福の科学は「レベルの高い理想」を主張してます。ホンでも理想が高ければ高いほど素晴らしいんでっしゃろか? たとえば各宗教がこないなコトをゆうたらどれが素晴らしい宗教なんでっしゃろ? あくまでシュミレーションだす。
ユダヤ党 「我々は消費税を5%に戻す!」
キリスト党 「いや、我々の主張は3%だ!」
イスラム党 「なにおゆう! 消費税は廃止、0%だ!」
幸福実現党 「ははは、実現党はマイナス3%だ! 100円の物を買うと、3円戻る政策だ!」
「理想主義」ゆうんはともすれば、『広告合戦』になるんだす。出けもせん理想、出けもせん効果が、「ゆうた者ン勝ち」になりますのや。それがホンマに実現したかゆう「現実」は無視して、「どんだけ自分がホラ(=理想)をゆえるか」の「ホラ吹き合戦」になるんですわ。
「イヤ、我々はもっと凄い理想を説く宗教だ!」ゆう団体が次々出て来るワケですさかい、「ゆうとるコト」が信用でけんのだす。もはや『蠱毒(こどく)』の術でも使こおて、壺の中にカルト教祖を閉じ込めて、互いに殺し合いさして、生き残った教祖を『猛毒神』に認定するしかおまへん! ホンでこいつを北朝鮮にでも送って、金正恩に噛み付かせるか、崔順実(チェ・スンシル)みたいなイタコ・アドバイザーにするんがええかと!
神道こそが21世紀の宗教! (4)
■ 神道は「無茶をゆわん、穏やかな宗教」
前回は『聖書』型宗教の問題点について、わての見解を述べました。要おするに、「けっこおアラのある教え」を、「これが絶対で最高の教えだ!」ゆうて、「他人に押し付けたり」、「ゆうコト聞かんヤツは殺したり」が問題なんだす。許容範囲が狭いんが問題なんだす。別のコトバでゆうと、「白か、黒か?」の「二分法」なんだす。中間を認めんトコが問題なんだす。
それに比べると、神道は許容範囲が広い、穏やかな宗教なんですわ。「家に神棚を置かんと地獄に堕ちる」とか、「毎朝神棚を拝まんと地獄に堕ちる」とか、「神社にお布施をせんと地獄に堕ちる」とかはおまへんでっしゃろ? イヤ、そもそも神道に「地獄」ゆう概念はおまへんしー。「神道+仏教」が日本人の宗教観でんが、「死んだらどないなヒトでも仏さま」ゆうんが日本人の宗教観ですわ。「千年恨む」の韓国や、「死んだら墓を暴いて死体に鞭打つ」シナとは根本的に違うんだす。
■ 神道は「頑張れば実現でける理想」を説く宗教
神社に行ってゆわれるコトは、
「神様を敬いなさい。感謝しなさい (“神様に服従しなさい”ではない点に注目)」
「親や先祖に感謝しなさい (先祖崇拝が神道のキモやケド、血筋は否定でけんのも事実)」
「家族仲良くしなさい。隣近所と仲良くしなさい。 (神より人間重視の点に注目)」
「立派な人間になるよう努力しなさい (生き神様になれ、霊能者になれとはゆうとらん)」
「そして回りの人を幸せにしなさい (神を幸せにしなさいではない点に注目)」
ぶっちゃけこの辺「誰でもでける努力目標」だす。「一日5回メッカに向かって祈れ」とか、メンドイ事ゆうとらんでっしゃろ? しかも「努力義務」でおまして、「せんかったら地獄に堕ちる」とか、「でけんかったら地獄に堕ちる」とかゆうとらんのだす。
つまり神道は「頑張れば実現でける理想」、「凡人にも実現可能な理想」を説いとるワケだす。「良い人になれ! 周りと仲良くせよ!」ゆうとるワケで、「大成功者になれ!」とか「丸太小屋からホワイトハウスを目指せ!」とかゆうとらんのだす。「生き神様にならなくていいんですよ。人として良き人になりなさい。周りの人と仲良くして、幸せにしてあげられるあなたになりなさい。私たち神を称えるよりも、私たちの子孫であるあなたたちが幸せになる方が嬉しいのです」ゆうんが神道の考え方だす!
「頑張れば実現でける理想」、「人間にとって無理のない努力義務」、これが神道の特徴だす!
■ 神道は「現実主義」の宗教
天照大神が天孫降臨する孫神・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に賜った3大神勅はこお!
1.日の本の地を治(し)らせなさい。(「支配せよ」ではのおて、「よく治めよ」)。
※ 事実、この頃の日本列島には戦争の痕跡がなかった。
2.八咫鏡(やたのかがみ)を差し上げます。これを見て、日々私の心を思い出しなさい。
3.稲の穂を差し上げます。米文化を広めなさい。
どれも「頑張れば実現可能な理想」でんな? ああ、「キレイ事理想主義者」から見たらレベルの低い「理想」ですわ。ホンでも日本の神道は「キレイ事の理想」はゆうとらんのでっせ!
(つづく)
神道こそが21世紀の宗教! (3)
つづきだす。
■ ちょっと聖書批判
『聖書』はユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の根本経典になっとります。わては『聖書』にも一定の敬意を払いまんが、これら3つの宗教の問題点は、『聖書』を絶対視しすぎるトコなんですわ。『聖書』にもおかしな箇所はけっこおあるんだす。
◆ ヤハウェは唯一神のハズなんに、複数形で「われわれ」テゆうとる
・ 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り・・・」(創世記1:26)
これについては後付け解釈でいろいんな弁明がおます。たとえば父と子と精霊を意味しとるとか、高貴な存在は複数形で呼ぶとか・・・。ホンでもこれ、イエスが生まれる前に書かれた部分やし、ヤハウェ自身が自分でゆうとるコトバなんだす。さらにはモーセの十戒の2番目では、ヤハウェ自身が「わたし」テ単数形でゆうとるんだす。おかしなハナシですわー。
・ 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20:3)
◆ ヤハウェはえこひいきする神
アダムとイブが楽園を追われて、カイン(兄)とアベル(弟)ゆう息子が生まれたんだす。ある日がカインとアベルがそれぞれヤハウェにを捧げ物をしたところ、ヤハウェはアベルの捧げ物を喜び、カインのは無視したんだす。ホンで嫉妬に駆られたカインはアベルを殺してもおたんですわ。人類初の殺人だす。カインの何が悪かったんやか聖書に記述はおまへんのだす。酷っでえ神なんだす、ヤハウェちゅうんは。 コイツ絶対「邪神」やろ!
◆ あれあれ、アダムとイブの子孫以外にもニンゲンがおるデ!
ホンで、カインはノドの地に追放されまんのやケド、カインはヤハウェにゆうんだす。「ここを追放されたらほかの人間に殺されるかも知れません」。それに対してヤハウェは「お前を殺す者には7倍の復讐があるよう、お前に印をつけてやろう」ゆうてゆうてカインを追放するんですわ。ホンでもってカインは放浪の末ノドの地にたどりついて、そこで妻を娶るんだす。
あれあれー! ヤハウェが創造した人間は、アダムとイブ。ほんでその子供のカイン・アベル・セトだけやったハズなんにー! なんでほかにも人間がおんのん? カインが娶った嫁はんは、ひょっとしてエル・カンターレが創ったニンゲンでっか(笑)?
■ 『聖書』にマチガイがあっても構わんが、押し付けるんが問題
このように、『聖書』も結構ええ加減な部分がおます。ホンでもそのヘンは「誇張やな」テ読めばええんで、問題視する必要はおまへんのですわ。問題は『聖書』を絶対的に正しいと見て、それの価値観を押し付けるトコにあるテ思うんですわ。これは『聖書』の問題ゆうより、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教ゆう教団組織の問題だす。こん姿勢が行き過ぎたんがイスイス団みたいなイスラム教過激派ですわ!
■ 「理想の押し付け」が問題
以前、こっちの記事(「【わての宗教観 3】 宗教とは究極の「理想主義」。その問題点!」)でも書いたんでんが、「理想主義(現実を無視した理想の押し付け)」ゆうんは危険なんだす。
「理想」ゆうんは「頑張れば実現でける理想」やないと無意味なんだす。低身長でガリガリひょろひょろがプロレスラー目指しても無意味なんだす。不っ細工がアイドル目指しても無意味なんだす。天使みたいに背中に羽が生えるよおに祈っても無駄な努力なんだす。だいたいにして、翼開長7~9mのプテラノドンの体重は15~20kg。翼開長10~18mのケツァルコアトルスに至っては体重は70kg。宗教画によくある天使の羽ではとてもやないケド飛べんのだす。
たとえば「共産主義」も一種の擬似宗教でんが、「平等に働いて、必要に応じて受けとる」ゆうんも一見理想的に聞こえまんが、果たしてそれでニンゲン納得でけるんでっしゃろか? ナニを持って「平等」テ判定でけるんでっしゃろか? たとえば共産主義国に2軒の農家があったとしまっせ。Aはんは一生懸命創意工夫して、おいしい野菜を育てた。Bはんはダラダラ働いて、貧弱な野菜ばっか市場に供給した。どっちも労働時間は同じで、どっちも家族構成は同んなじ。せやから給料も同んなじ。人情として、これで納得でけまっしゃろか? 「理想主義」は一見素晴らしく見えます。ホンでもよくよく見ると、人間の「現実」を無視した「空虚な理想論」やったりするんですわ!
せやからわてらは「キレイ事の理想」に惑わされたらアキマヘン! 「頑張れば実現可能な理想」なんか、「頑張っても実現不可能な理想」なんかを見極める目が必要なんだす。
同様に、「理想を押し付けてくる連中」にも注意が必要だす。高校野球の球児が全員プロになれるワケもないんだす。「頑張りなさい。でも、プロになれなくても頑張ったあなたは素晴らしいんだよ」ゆうよおな視点が必要やテ思うんですわ。
(つづく)
神道こそが21世紀の宗教! (2)
続きだす。
■ 「高等宗教」vs「低級宗教」
過去、キリスト教圏から神道は「低級宗教」、「アミニズム(自然崇拝)型宗教」テゆわれて来ました。キリスト教自身は自らを「高等宗教」テ名乗って来たんでんが、その理由は、
「教えがある」
「聖書ゆうカッコで文章になっとる」
「最高の神の教えである」
ゆうコトみたいだす。
一方、彼らにゆわすと神道の劣っとる点は、
「教祖がおらん」
「教義がない」
「文章(経典)になっとらん」
「最高の神がおらん」
「本尊がおらん(拝む対象がぎょおさんある)」
ゆうコトみたいだす。ホンでもこれのドコがあかんのでっしゃろか?
■ キリスト教や幸福の科学みたいな「創造主」を立てる宗教への反論
1.教祖がおらんでナニがアカンのでっか?
イエスはんとかマホメットはんがおらんと宗教やないんでっか?
2.教義は文章になっとらんだけで、「ない」わけやおまへんデ!
たとえば、「人を殺したらアカン!」ゆうんは日本人全員のコンセンサスになっとります。
そないな常識をいちいち文章にするんがそないに偉いんでっか?
たとえば「人を殺すな、傷つけるな、盗みをするな、嘘つきの汚名をかぶることなかれ」ゆう教えを、
「家訓」として文章に残したケド守らんかった家と、
「家訓」として文章にせんかったケド家風として守った家の、
どっちが神の心に叶のおとるんでっしゃろか?
3.「文章(経典)」にしたら、守らんでも素晴らしいんでっか?
無法国家シナかて、素晴らしい憲法を持ってますのや!
問題はそれを守るかどおかなんだす!
4.最高の神を信じとったら、すべてが許されるんでっか?
そもそも「最高の神」ゆうんが「自己申告」だす。
誰も「最高の神」かどおかは証明でけんのだす。
勝手に「正義の旗」を掲げて、他国を植民地にしてええんでっしゃろか?
5.拝む対象がいろいろある
これのどこが悪いんでっしゃろか?
たとえば今般ドナルド・トランプが米大統領になりました。
トランプは「不動産王」だす。
せやケド、トランプにノーベル賞取れる研究分野を聞いて、答えが出まっしゃろか?
「全知全能」なんてないんが現実世界なんですわ。
「絶対者」とか「何でも判る最高の神」とかを設定するんがマチガイなんだす。
(つづく)
神道こそが21世紀の宗教! (1)
幸福の科学にダマされて以来、長年わてが考えて来た宗教観を述べさしてもらいますー。わての勝手な持論ですさかい、みなはんに強制するツモリはおまへん。参考にしてもらえばええんだす。
■ 欧米型宗教の破綻
現在、中東やらアフリカがムッチャクチャになっとります。あん原因はヨーロッパやアメリカが自分らの利益のために好き勝手やったせいだす。その原因は、「すべての自然、すべての生き物を管理せよ!」ゆう欧米型価値観にあるんですわ。つまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に基づく価値観だす。
これらの宗教の特徴は、「絶対者・創造主・唯一神」の存在を掲げとることですわ。ホンで人間はどないな存在かゆうと、創造主に創られた、神を褒め称えるだけの存在。パウロの言葉を借りれば「偉大なる創造主によって土くれから創られただけの人間が、なんで創造主に文句を言えるのでしょう(大意)」。要おするに、「人間が神に対して文句を言うな!」、「創造主が土くれから美しい花瓶を創ろうが、便器を創ろうが、便器が文句を言うな!」、「ホンでもって便器の出来が悪くて、エイヤッ!って叩き割られても文句を言うな!」ゆう教えだす。かなりキョクタンにゆうてますが・・・。
こないな教えが根底におますさかい、「アフリカ人は出来の悪い便器やから奴隷にしてしまえ!」とか、「東洋人は出来が悪い人種やから、植民地にして我々が管理してやろう!」になるんだす。
こん考え方で、欧米列強は一時期全世界を支配したんでんが、今になってそんツケが中東・アフリカで回って来とるんだす。わての宗教観でゆうたら、「宗教は信じる人を幸せにするモノ」なんだす。過去に被征服民を不幸にし、現在は征服者を不幸にしとる欧米型宗教、人を幸福にせん以上、破綻宗教としかゆえまへんのや!
■ 一方、わてらの「神道」は?
大東亜戦争で負けて以来、つい数年前までわてらはGHQに洗脳されとりました。「すべて日本人が悪い」みたいな洗脳を受けて、「生まれてきてスンマヘン!」、「生きていてスンマヘン!」みたいなメンタリティを植えつけられて来たんだす。
ホンでもここ最近、LCC(格安航空便)やネットの発達、スマホの普及なんかで、世界中が日本ファンになっとるんですわ! 日本を嫌っとるんは、シナ・韓国・北朝鮮の「特定アジア3ヶ国」だけ。それも政策的に国民が嫌うよおに仕向けとるだけなんだす。日本に来るとシナ人も韓国人も一発でファンになるんでっせ!
これってわてらの究極の行動原理の「神道」が、世界的に受け入れられとるゆうコトですわ! それがわてが「神道こそ21世紀の宗教」ゆう理由だす!
■ 世界から愛され、尊敬される日本
・ 海外「日本のような大国が…」 眞子内親王殿下のご訪問に沸くエルサルバドル
・ 海外「これが日本との差だ!」 皇居で行われたご会見の光景にアラブ社会が衝撃
・ 人類が誇る地上最高の団結力をここに垣間見ました・・・列に並ぶ日本人を見た海外の反応
・ 海外「日本人はやっぱり日本人だった」 国民性が分かるシールの貼り方が話題 【海外の反応】
でけたらコメント(海外の反応)を読んでおくれやす。
(つづく)
【幸福の科学の問題点 2】 「バランス」と「ほどほど」がない!
前回の記事、「【幸福の科学の問題点 1】 『理想主義』の罠」の続きです。前回は『行き過ぎた理想主義』の問題点について語りました。今回は『理想主義』の対極にある『現実主義』について考えてみます。
■ 私は『理想主義』も『現実主義』も大賛成! でも・・・
私は『理想主義』も大いに賛同しています。自由・平和・平等・愛・繁栄・進歩・人権・・・。どれも素晴らしいと思います。ですが、私が賛同するのは『無理のない理想主義』であって、『行き過ぎた理想主義』には大反対なんです。たとえば困ってる人は助けてあげたいと思います。難民も困っているなら受け入れてあげたい気持ちはあります。しかし、仮に3億人もの難民が来たら日本は滅亡です。偽装難民の問題もあります。ですから安っぽいヒューマニズムでの『行き過ぎた理想主義』には大反対なんです。同様に、「他国に攻められた場合でも戦ってはいけない。殺されても抵抗してはいけない。なぜなら彼らは“平和を愛する諸国民”なのだから」といった憲法9条思想にも大反対なんです。これなんか、『行き過ぎた理想主義』の典型例ですから。
一方、『理想主義』の反対は『現実主義』ですが、私はこれにも大いに賛同します。なぜかと言えば、私たちにとって大切な事は、まず「生命の安全」、次に「生活の安定」、3番目に「経済的な余裕」という『現実』だからです。これらがあって初めて「理想の実現」への一歩を進める事ができるからです。たとえば大川隆法が内戦の続くシリアに生まれて、「我が教えを地の果てまで広めよ!」と叫んだとして、シリアの信者がどれだけ伝道できるでしょうか? 稼ぎ頭のお父さんが爆弾で死んでいるかも知れません。お母さんもどっか怪我して、働くどころか子供の世話すらできないかも知れません。家は空爆で吹き飛びました。食料を買うお金もありません。こんな状態でやれ伝道だ、やれお布施だと言われても不可能だからです。ですから私は『現実主義』の立場も賛同するんです。
ですが私が賛同するのは『身の丈に合った現実主義』です。『行き過ぎた現実主義』には大反対です。「立って半畳、寝て一畳、天下取っても四畳半」という言葉があります。人間ひとりの生活空間としてはこの程度で充分という意味です。現代生活にはもうちょっと欲しい所ですが、「人間の幸せ」という観点から言ったら、せいぜいこの3~4倍程度の生活空間で幸せを実現できるんです。みなさん、仮にみなさんが4畳半のリビングでご家族とテレビを見ているとしましょう。これが10畳のリビングになったら幸せですよね? しかしこれが20畳になったら幸せが2倍、30畳になったら幸せが3倍になるんでしょうか? 仮にリビングが東京ドーム並みの3000畳になったら幸せが300倍になるんでしょうか? ドームのマウンドの位置にコタツを置いて、家族でオーロラビジョンを見ながらリモコンでポチポチ番組を切り替えて幸せ300倍なんでしょうか? トイレに行くのに自転車で行かないといけないような大規模邸宅に住む事が、果たして人間にとって幸せなんでしょうか? 私が『(人間の)身の丈に合った現実主義』というのはこう言う意味なんです。
■ 『行き過ぎた現実主義』の問題点 (アメリカの場合)
一般的な庶民は、「家族が安心して暮らせる平穏な生活」を望んでいます。確かに「もうちょっと収入が増えたらいいなあ・・・」とかの思いはありますが、だからと言って「政府を打倒して、革命を起こせーっ!」までの不満はありません。この感覚は『身の丈に合った現実主義』であり、私はほのぼのとした共感を持っています。
それでは『行き過ぎた現実主義』とはなんでしょうか? その例は、アメリカの多国籍企業であり、シナの権力者たちです。『行き過ぎた現実主義』を押し進めると、「勝ち組・負け組」ゆう思想に行き着きます。「この世で大成功して、富と権力を手に入れれば自分は成功者であり、自分は幸せなんだ!」と感じる間違った思想です。前節でのたとえ話でではありませんが、「東京ドームサイズのリビングで暮らして幸せなのか? あなたは本当にそんな生活に憧れを感じるのか?」と言う事です。
昔のアメリカ人は、アメリカと言う祖国の幸せを考えていました。ヘンリー・フォードは「我がフォード社で働く従業員が、わが社の自動車を買えるように」と考えて、お手頃価格のフォードT型を開発しました。企業家が自国民のために頑張ったので、アメリカ国内に内需が生まれ、アメリカが発展したのです。
ところが今のアメリカ企業家は自分と株主の利益を優先するために、本社をタックスヘイブンに置いて、アメリカに税金を落としません。ですのでアメリカがどんどん貧乏になるんです。結果、アメリカの内需が落ち込んでシナ頼みになり、オバマ大統領が、「アメリカはもう世界の警察官ではない」という発言をする状況になってしまいました。白人にも貧困層が広がった結果、トランプみたいな過激な候補に人気が集まるんです。
■ 『行き過ぎた現実主義』の問題点 (シナの場合)
同じ現象は、シナにも見られます。シナ社会は「自分の一族以外は敵」という原理原則で動いています。「中華人民共和国」とか言っていますが、ある意味「部族社会」に近い一面があります。自分の一族の生き残りしか考えておりませんので、共産党幹部に上り詰めると何千億円もの不正蓄財をして、アメリカやカナダやオーストラリアに逃げるんです。シナ共産党は「我が国には56の民族がいる」と自慢していますが、お互い「同じ中国人」という意識が形成されておりません。「他民族の事なんか知った事か! それより我が一族の生き残りの方が大事だ!」という考えで行動しています。
ですから自分の一族の生き残りを賭け、幹部になったら賄賂を取りまくり、不正蓄財をして捕まる前に海外に逃げるゆう発想になるんです。結果、シナ大陸は水質汚染・土壌汚染・大気汚染でボロボロ。自国企業を育て、内需拡大をするゆう発想がそもそもないんです。連中に「バトリオット=祖国愛」はないんです。自国をボロボロにしてもとにかく蓄財して、他国へ移民する。移民先でも一族の利益のためにその土地をボロボロにし、食えなくなったらまた移民する。
結局自分の事しか考えない。周りと一緒に協調して繁栄しようという考えがない。「自分さえ勝ち組になれればいい」。その結果、祖国の国土も荒廃し、自分も不幸にするんです。これが私が『行き過ぎた現実主義』を嫌う理由です。
■ 『適正な現実主義』とは
一説によると年収900万円くらいまでは、幸福度は収入に比例するそうですが、それを超えても幸福度は頭打ちになるそうです。場合によっては不幸になるケースもあるとか・・・(週刊現代 “これを超えると不幸になるらしい「年収900万円=最大幸福」説は本当か? 全角度調査「収入」と「幸福度」の相関関係)。当然、低所得であれば、ひもじい、寒いで、快適で文化的な生活が送れません。また、将来に対する不安も大きくなります。
しかし、お金はあればあるほど幸せかと言えば、必ずしもそうとは限らないと言うのがこの記事の主張です。確かにそうかもしれません。「お金はいくらあっても困る事はない」とは言われますが、あまりに高収入だと、節税対策に頭を悩ますようです。また、財産を減らさないように分散投資した結果、財産を減らす事もあります。残った財産はまだ使いきれない程であったとしても、精神的ダメージは相当なものかもしれません。さらにお付き合いがある人たちも資産家が多いでしょうから、衣食住その他もそれなりの水準を維持しなければならないでしょう。冠婚葬祭に呼ばれたとしてもそれなりの額を包む事になり、望まぬ出費が増えるケースもあるでしょう。
アメリカやシナや韓国や北朝鮮の支配者層を見ていると、どうも彼らからは「莫大な財産が幸せをもたらす」とか、「絶大な権力を振るえる事が幸せなんだ」みたいな価値観を感じます。でもそれは、自国民の富を奪って、自分だけが超え太っている状態です。国内に貧乏人を増やして自分だけ儲けているスタイルです。ですから国内に暴動や粛清や暗殺が絶えないのです。
一方、日本人はそれ程莫大な財産や絶対的な権力に執着しません。財産や権力を誇示する態度は見苦しいとする風潮があります。日本に帰化された元・韓国人の呉善花さんがこのようなエピソードを紹介しています。「ある時、日本の国会議員の先生方を対象に、セミナーを依頼された事があった。テーマは『今後の日韓関係』みたいな内容だった。私はつい韓国でのクセで、『日本の支配者階級であられる国会議員のみなさまとしては・・・』と言ったところ、全員がきょとんとして、次に大爆笑が起こった。日本の国会議員は自分たちを“支配者階級”などと思っていないのだ・・・」。
日本人は大富豪になることや、絶対権力者になることに、それほど価値を見出していません。みなさんもおそらく「家族が安心して、幸せに暮らしたい」とは思っても、「大富豪になって、こないなニュータウンから脱出したい」とか、「絶対権力が振るえるようになりたい」とかは考えもしないのではないでしょうか?
ですから私は『適正な現実主義』を提唱したいのです。別の表現をしたら、『身の丈に合った現実主義』です。人間は所詮、80~90年しか生きられません。それ以上長生きすると、かえってあちこちに持病が発生します。大富豪になったところで年収900万円以上は欲しがる意味がありません。シナみたいに権力を追求すると、敵対勢力から暗殺されかねません。年収900万円を目指す程度の『現実主義』でいいのではないでしょうか? もちろん800万円でも600万円でも充分幸せだと思います。
■ 私の考える理想
今回は『現実主義』について考えてみました。私は『理想主義』も『現実主義』もどちらも大切だと思います。でも両者のバランスが大事だと思うんです。そして、どっちも『行き過ぎた理想主義』とか『行き過ぎた現実主義』になると危険ですし、あくまで、「人間が実現可能な理想」や「生身の人間にとっての幸せ(=身の丈に合った幸せ)程度の現実」という範囲で収めるという考えが大事ではないかと思うのです。
私の大好きな二宮尊徳の言葉にこういうのがあります。
「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」
『理想主義』も『現実主義』もどっちも大事で、車輪の両輪みたいな両者のバランスが大事なのではないでしょうか? そしてどちらも『無理のない理想主義』と『身の丈に合った現実主義』という「ほどほど感」が必要なのではないでしょうか?
『理想』を追求して、「天使の羽が欲しい」と思っても、人間の背中に羽が生える事はありませんし、『現実』を追求して、「世界の経済を一手に支配したい」と思っても、金正恩が世界支配を実現したようなもので、かえって貧乏になります。やはり『ありのままの人間としての幸福』を追求するのが『自然体の幸福』なのではないでしょうか?
【幸福の科学の問題点 1】 『理想主義』の罠
タマにはマジメに標準語で・・・。
宗教の本質はなんでしょうか? それは『理想主義』です。共産主義や儒教思想なんかも『理想主義』ですが、違いは神を据えるか据えないかだけの違いです。要するに、今の現実を間違っている・腐敗している・堕落していると捉え、「このような現実は否定されなければならない」、「神の理想を、共産主義の理想を実現しなければならない」と訴えます。
たとえば幸福の科学の場合ですと、「世界は主エル・カンターレ(大川隆法)の教えと指導で統一されなければならない」と信者に説いてますし、共産主義の場合ですと、「資本家や王政は打破して、労働者が主役になる平等社会を創らなければならない。そして、それを指導するのは共産党である」と党員に説きます。
私は彼らの考えを頭から否定するつもりはありません。なぜならこれらは「ひとつの価値観」だからです。人はそれぞれ色々な価値観を持って生きています。他人の考えは尊重しなければいけません。確かに私は2chやヤフー知恵袋で信者をクソミソにけなしています。ですがそれはあくまで信者の不誠実な言動や、論理の整合性のなさを指摘しているのです。彼らが騙しに近い伝道や高額のお布施勧誘をせず、「自分個人の信条」として信じるのならば、私は否定せず尊重するつもりでいます。
ですが、こうした『理想主義』にはひとつの大きな問題点があります。それをこれからお話しようと思います。
■ 『理想主義』の問題点
『理想主義』はたいへん結構な考えだと思います。私の考えは「理想と現実のバランスが大切」という思想ですので、『理想主義』は尊重したいと思っています。しかし、問題は「理想主義が行き過ぎて、現実を無視するようになった場合」です。『理想主義』は時として、「現実無視」、「現実軽視」、「現実否定」に陥る危険性があるのです。
たとえばイスラム原理主義の『イスイス団』(連中は”イスラム国”とか名乗っていますが、ただの山賊ですので“国”などと呼ぶつもりはありません)。彼らも一種の『理想主義者』です。私はイスラム教にも敬意を払っていますが、イスイス団はまともなイスラム教ではありません。まともなイスラム教徒は異教徒だからと言って、問答無用で人質にしたり、何億円も身代金を要求したり、首をはねたり火あぶりにしたりする事はありません。イスイス団は、「理想主義が行き過ぎて、現実を平気で無視するようになったイスラム主義者」なのです。
そしてさらに、『理想主義』が行き過ぎて現実を軽視するようになった結果、彼らは自分たちの犯罪行為という「現実」を見て見ぬ振りをしています。おそらく本心では罪悪感を感じているのでしょうが、それを押さえ込むために、「我々は高い理想を実現するために、命がけで闘っているのだ。だから我々の行為は正しいのだ!」という論理で自分を納得させているのでしょう。また、諸外国から糾弾されても言い返せないものですから、ますます大声で叫び、声明を出し、世界遺産を破壊するなどのパフォーマンスに走るのだと思います。つまり『(行き過ぎた)理想主義』の問題点は、自分がどんなに残虐非道な犯罪を犯しても、自分が唱える高い「理想」でもってチャラにして、罪悪感を感じなくなってしまう事にあります。何万人も惨殺するという「現実」を直視せず、「理想」に一歩近づいたという、ある意味「妄想」の世界で自分の行為を美化してしまう点にあります。
■ 内ゲバ・粛清が多いのはなぜか?
別の問題点として、内部分裂や内ゲバ・粛清といった問題が、『理想主義者』の集団には多いという特徴が見られます。たとえばスターリンにしても、毛沢東にしても、金日成にしても、かつての同士を暗殺や粛清で大量に殺しています。日本でも共産党の宮本顕治が党内でリンチ殺人を行ったり、連合赤軍がリンチ殺人(総括)を行ったりしています。美しい『理想主義者』の集団で、なぜこのような事件が多発するのでしょうか?
それは「理想」はまだ誰も見た事がないからです。「現実」は誰でも見て知っていますから、お互いの認識に大きなズレが生じません。たとえば戦前日本が貧しくて情けない「現実」であったとしても、豊かなアメリカという「現実」を見る事で、「アメリカみたいな社会を目指そう!」と目標を共有する事ができます。人によって「それは無理だ。頑張ってもせいぜいアメリカの半分程度が限界だ」とか、「いや、アメリカの10分の1程度の繁栄でも日本には充分だ」などと意見が分かれる事はあるでしょう。しかし、お手本としてのアメリカという「現実」は、全員共有する事ができるのです。これが『理想主義者』の対極にある『現実主義者』の考え方です。
一方の『理想主義者』の考え方はどうでしょう? お手本となる「現実」がありませんので、具体的なイメージがつかめません。各人抽象的なイメージを熱く語り、革命の理想を共有するのですが、実は各人が描くイメージは必ずしも一致しているとは限りません。誰も見たことがない「理想社会」ですから当然です。このような集団内で自分の理想こだわればこだわるほど、当然、別メンバーの理想と対立します。
たとえて言うならラーメン屋を共同経営する場合で考えてみてください。「とにかく評判になって繁盛する店を作ろう」という現実路線なら大きな問題にはなりません。ところが自分の理想にこだわる頑固職人みたいなメンバーばっかりだったらどうでしょう? 「やっぱりラーメンの王道は醤油だ!」、「いや、純粋にスープを味わえる塩ラーメンが一番だ!」なんてやっていたら内部分裂必至です。開店前にケンカ別れするか、どちらかを暗殺・粛清するしかありません(笑)。
■ 『理想主義』の行き着く果て
結局、「究極のメニュー」ではありませんが、現物の「究極のメニュー」が出来ていないのに、「料理の理想」ばっかり語っても、しょせん料理評論家にしか過ぎません。料理も作れない、店も繁盛させられない評論家、特に宗教評論家同士が反目したら、おそらく次のような論争が起こるでしょう。
「イエス・キリストこそ神の子だ!」、「なにお、イエスはしょせん子だろ! アラーは父だぞ!」、「知らないのか? イエスやムハンマドを遣わした存在がエル・カンターレなのだ!」。「現実」を無視して「理想(しょせん空想)」でばっか討論するのですから、いつまで経っても水掛け論にしかなりません。どちらが正しいか、誰も証明できませんので、最後は内ゲバか粛清か宗教戦争をするしかないのです。
共産主義でもイスラム原理主義でも幸福の科学でも同じなのですが、「理想」を強く主張すればするほど「現実軽視」の傾向が強くなります。その結果、どんどん現実離れしてしまい、社会から反感をもたれるようになります。そして、「こんなはずではない」と思う気持ちが現実社会に対する恨みを強くし、美しい「理想」を掲げているくせに、ますます過激な行動に走るようになるのです。
「理想」ばかりを見つめ過ぎた結果、「現実」を見る事をしなくなってしまう、これが『理想主義者』の陥りやすい問題点なのです。
【わての宗教観 7】 やっぱ最後は「石門心学」でんな!
石田梅岩(1685~1744)ゆう方がいてます。丹波生まれのあきんどで、のちに京都で『石門心学』を説いた方だす。
こん方商人(あきんど)やったんで、「士農工商」の一番下に置かれとった「商人(あきんど)」に対して、「あきんどは決して卑しい仕事ではない。収穫された米、採掘された金銀銅などを必要とされる土地に運ばなければどうなるのか? あきんども大切な仕事をしているのだ。ならば“我よし、相手よし、世間よし”の“三方よし”の取引を心がけるべきだ」テゆうた方なんだす。これであきんどは、自分の仕事に「誇り」を持てたんですわ!
まあ、経済学に詳しゅうないわては、そのヘンの意見はタナに置いとくとして、わてが注目しとるんはこん方の「宗教」に対する根本思想だす。梅岩はんの思想はこおだす。
世の中には「神(神道)・仏(仏教)・儒(儒教)」などの教えがある。
しかしこれらの教えはあくまで人の心を磨くための教えである。
たとえてゆうなら人の心は玉(宝石)。
「神・仏・儒」の教えは「砥石」。
砥石は玉を磨くためにあるのであって、
決して砥石のために玉(人の心)があるのではない。
心が主役なのだ!
さすれば磨き具合に応じて砥石を取り替えるように、
心の境涯に応じて「神・仏・儒」を取り替えて、なんの不都合があろうか?
わての宗教理解もけっこお強引なんでんが、えーい、知ったコトか! ナンか間違ごおたコトゆうてまっか? 「宗教」に対して、わてはこないに考えとるんだす!
以上、「わての宗教観」関連はこれで終わりだす!